雪の妖精のおはなし
木枯らしが吹く晩秋のある日。新王都にも一歩ずつ冬の気配が近づいている。今年の冬は例年よりも寒そうで、空気に混ざる冬の匂いが強い。でも、この匂いは永久凍土ではいつも感じていたもので、フレアローズは少し懐かしさを感じながら、庭園を見渡せる奥にある小さなオブジェの前から立ち上がった。
このオブジェは、永久凍土にある神父様とシスター達のお墓の代わりである。フレアローズが永久凍土に帰らずにトリスタンと共に新王都ゼノビアで暮らすにあたり、ひとつだけ心に引っかかっていたのが、神父様達のお墓であった。
フレアローズとしては、毎日とまでは言わずともできる限りお墓参りをしたかった。だが、さすがにお墓まで新王都に移設する訳にはいかなかったので、トリスタンに相談したところ「庭園にお墓の代わりになるものを置いたらどうかな」と言われ、それならとお願いして美しい庭園を見渡せるこの場所に置いてもらったのだ。
この庭園は、ゼノビア城からデボネア将軍が撤退した後にカステアン・ミュラー卿が主導して再生させたものだ。戦争が始まる前は様々な花や草木が植えられ、とても美しい庭園だったそうだが、帝国軍が駐留するようになってからは必要最低限しか手入れをされていなかった。
そのため、帝国軍撤退後にまた以前のような美しく華やいだ王都に戻すための第一歩として、この庭園を再生することにしたのだ。花の香りと美しさは人の心を癒してくれる。心を豊かにしてくれる。だからこそ、庭園の再生が急務なのだとカステアン卿は力説し、ウォーレン卿がそれに同意した形で、庭園の再生が優先的に行われたのだった。
「そろそろクッキー冷めたかな」
先程まで、厨房で焼いていたクッキーが冷めて食べごろを迎えそうだなとフレアローズは思っていた。
今日はニーナ教官に急用が入ってしまってお妃教育が休みになってしまい、トリスタンも新しく発見された宝石の鉱山の視察に行っていてやることがなかったため、フレアローズは厨房の片隅を借りてクッキーを焼いていた。
彼女は永久凍土に住んでいた頃からよく料理をしていたが、特にこのシスター・アイリス直伝のクッキーには自信があった。
シスター・アイリスはとても料理が上手で、そのレシピを惜しげもなくフレアローズに教えてくれた。少し大きくなったフレアローズが火を使えるようになってから、神父様やシスター達の負担を少しでも減らそうと、様々な料理をシスター・アイリスから教わるようになった。最初は手つきがおぼつかなかったが、呑み込みが早くて器用なフレアローズはすぐにコツを掴み、メキメキと料理の腕を上げていった。
教えた料理が上手く出来上がると、シスター・アイリスはいつも笑顔でフレアローズを抱き締め、たくさん褒めてくれた。失敗してしまう時もあったが、そんな時でもシスター・アイリスは優しくフレアローズを慰め、失敗した料理でもいいところを見つけて褒めてくれたのだった。
そんな優しいシスター・アイリス。フレアローズが大好きなシスター・アイリス。
もちろん、フレアローズは神父様のことも大好きだし、シスター・ナターシャのことも大好きだ。こうして三人のことを忘れないことが、これからのフレアローズにとって必要なのだと思う。三人が命を投げ出してまで護り通してくれたフレアローズの命。だから、絶対に無駄にしてはいけないのだ。
フレアローズはクッキーが冷めたか様子を見ようと、厨房へと足を向けた。
きっちりとした間隔で植えられた薔薇の植え込みの間を小さな子供がぽてぽてと歩いている。ネコ耳帽子をかぶっていて、そこから見事なストロベリーブロンドが背中に流れている。肌の色は真っ白で透けているようで、まさに雪のようだ。
この子供は、人間ではない。雪ん子という雪の妖精で、冬の使者である。
冬が近くなるとこうしてあちこちの土地に現れ、近くの人からホットミルクをもらっていつのまにか消えていく。
雪ん子がくると、その場所には数日のうちに雪が降り、本格的な冬が訪れるのだ。
毎年現れるわけではない雪ん子は、ここ数年は王都やゼノビア地方に現れなかったのだが、今年はゼノビアのあちこちに現れている。どうやら雪ん子は何人もいるらしい。どこかに雪ん子の里があり、妖精の長老と一緒に暮らしていて、冬が近くなると里から出てくるのだ。
雪ん子が現れると、その冬は雪がたくさん降り、翌年の豊かな実りを約束してくれる。雪ん子はある意味豊穣の妖精なのかもしれない。
ぽてぽてと気まぐれにあるいていた雪ん子が、庭園の土に小さな足の先を取られたようだ。そのままぱて、と転んでしまった。
痛い。膝が痛い。すりむいたらしい。
雪ん子の大きな透き通るアイスブルーの瞳にみるみる涙が溜まり、やがて転んだままの体勢でびええええええええええん、と泣き出してしまった。よっぽど痛いようだ。
フレアローズが厨房に向かって庭園を横切っていると、どこからか子供の泣き声がしてきた。お城で働く人の子供が泣いているのかと思い、泣き声のする方へと小走りに駆けていくと、薔薇の植え込みの間で倒れたままびーびー泣いている小さな子供がいた。
「おやおや、どうしたんですか? あんまり泣いては可愛いお顔が台無しですよ」
フレアローズはとててと駈け寄ると、子供の頭を撫で、よいしょと立たせた。右膝がすりむけている。子供にはありがちな傷だが、痛い傷だ。
ぱたぱたと土を払ってやり、また頭を撫でてやると、子供がべそべそと泣きながらフレアローズにしがみついてきた。
「痛いですねー、でも大丈夫ですよ、あっちでネコちゃんばんそうこうを貼ってあげましょう」
「ネコちゃん……?」
子供が涙ででろでろになった顔を上げる。とても可愛らしい顔が台無しだ。フレアローズはポケットからハンカチを出し、子供の顔をそっと拭った。
「ほら、涙を拭くととても可愛いですね。そうですよ、ネコちゃんです。すぐに痛くなくなりますよ」
「ネコちゃん! 貼る!」
子供の顔がぱあっと輝いた。膝のすりむけは、ちゃんと消毒してやればすぐに良くなるだろう。
「お名前を教えてくれますか?」
「……カレン」
どうやらこの雪ん子の名前はカレンというらしい。
「カレンちゃんですね? よく似合っててとてもよいお名前ですねー、わたしはフレアローズですよ」
「……フレアローズ……?」
「そうですよ」
雪ん子カレンはにぱっと笑顔を見せた。どうやらフレアローズを気に入ったらしい。
「では行きましょうか、あんよにネコちゃんばんそうこうを貼りましょう」
フレアローズが立ち上がると、カレンがフレアローズのスカートの裾を握ってちょいちょいと引っ張った。
「ん? どうかしましたか?」
「フレアローズ、カレンあんよ痛い」
フレアローズは得心したようにぽん、と手を叩いてカレンを抱き上げた。
「すみませんカレンちゃん、わたしとしたことが気が利きませんでしたね。じゃ抱っこで行きましょうか」
「うん!」
「わたしの部屋でいいですか? ネコちゃんばんそうこうがあるので」
カレンがこくこくと頷く。フレアローズはカレンを抱き上げたまま自室へと向かった。
自室に向かう途中で厨房に寄る。クッキーはどうだろうか。そろそろお茶の時間なので、自室に持ってきてもらうことにした。カレンにもあげれば食べてくれるだろう。
「すみませんラファエルさん、クッキーはもう冷めましたか? お茶と一緒にわたしの部屋に運んでいただけるとありがたいのですけど」
何やら作業をしていたパティシエのラファエルが振り向いた。
「はい、かしこまりました、フレアローズ様。クッキーはアリシアに頼んで紅茶と一緒にお持ち致します……ん? その子は?」
「さっき庭園で転んで泣いていたので手当をするところなのです。お城で働いている誰かのお嬢さんだと思います」
フレアローズが抱っこしている子供は、普通の人間の子供よりも随分と肌の色が白く、透明さを感じてしまう。そして、どことなくフレアローズに似ていた。
「カレンちゃん、何か飲みますか?」
「……ホットミルク」
「わかりました。はちみつは入れますか?」
こくんとカレンが頷いた。やはりまだお子ちゃまなのでミルクも甘いのがいいらしい。
「ラファエルさん、はちみつとホットミルクもお願いしますね」
「かしこまりました。そうかからずにお持ちできるかと」
「ありがとうございます」
フレアローズは軽く頭を下げて踵を返し、厨房を後にするのだった。
フレアローズの部屋に入り、カレンをふんわりとしたソファに座らせると、フレアローズは薬箱を出した。ガーゼを水で濡らし、まずカレンの膝に付いた土をそっと拭ってやる。
「ちょっと痛いけど我慢できますね?」
カレンがこくんと頷いたのを確認してから、フレアローズが傷の消毒をする。滲みてヒリヒリするが、カレンはがんばって泣かずに耐えた。
「消毒しましたよ、よく我慢しましたね、偉いです」
フレアローズはカレンの頭を撫で、薬箱からネコちゃんばんそうこうを取り出し、カレンの目の前に差し出した。
ネコちゃんは茶トラ模様で、顔の形をした大きなばんそうこうだ。この大きさは擦り傷を全部覆うことができる。可愛くて傷をしっかりカバーできる優れものだ。
「カレンちゃん、ネコちゃんばんそうこうですよー、これを貼りましょう」
カレンは嬉しくなった。かわいいネコちゃんを自分の膝に貼ってもらえる。すりむいた傷の痛さなんて吹き飛んでしまった。
「ネコちゃん! ネコちゃん!」
喜ぶカレンの膝の傷の上に、ぺたんとネコちゃんばんそうこうが貼られた。カレンは瞳をキラキラさせて自分の膝を見ている。どうやらネコちゃんばんそうこうが相当気に入ったらしい。
「フレアローズ、ネコちゃんかわいい! ありがと!」
フレアローズはにっこり笑うとカレンの頭を撫でた。
「いえいえ、気に入ったなら何よりですよ。そうだ、おやつがくるまで絵本でも読みましょう」
「うん!」
フレアローズは本棚から絵本を数冊選んで取り出すと、ソファに座ってその中の一冊の絵本を広げた。カレンがフレアローズの膝によじ登ろうとしてきたので、抱き上げて乗せてやると、輝く笑顔でフレアローズを見てきた。
「では、絵本を読みましょうか。えーと、これは……『眠り姫』ですね」
「ねむりひめ?」
「百年眠ってしまうお姫様のお話ですよ」
「フレアローズ、早く!」
カレンに急かされ、フレアローズは絵本を読み始めるのだった。
「おひめさま、おうじさまとけっこんできてよかった!」
「ええ、そうですね」
眠り姫を読み終わり、満足そうな顔を見せるカレンを膝に乗せたまま、フレアローズが次の絵本を取ったと同時にドアがノックされ、何故かアリシアではなくラウニィーがワゴンを押しながら入ってきた。
「こんにちはラウニィーさん。アリシアさんかと思っていましたが」
「御機嫌よう、あたしの紅い薔薇。あんたとお茶しようと思ってきたら、ちょうどそこでアリシアとバッタリ会ったから、代わりにワゴン押してきたのよ……って、誰? その子」
ラウニィーが不思議そうにカレンの顔を覗き込んだ。
「あら、可愛いじゃないの」
「庭園で転んでたので、手当したんですよ。多分お城で働く誰かのお嬢さんかと思います」
「ふむ、なんとなくあんたに似てるわねえこの子……まあいいか、あたしはラウニィーよ。お名前は?」
ラウニィーはカレンの頭を撫でた。カレンが不思議そうな表情でラウニィーを見ていた。
「誰?」
フレアローズがカレンに教える。
「わたしの大切な友達ですよ」
「ともだち……?」
「そうです。カレンちゃんもわたしの友達ですよ」
フレアローズがにっこりと微笑むと、カレンの顔がぱああっ、と輝いた。
「友達! カレン、フレアローズと友達!」
そのやりとりを微笑ましく見ていたラウニィーが、再度カレンの頭を撫でた。
「あたしも友達にしてくれる?」
「うん! ラウニィーも友達!」
カレンがアイスブルーの瞳をキラキラ輝かせ、こくこくと高速で頷いた。
「名前名前」
どうやらカレンはラウニィーにまだ名前を教えてなかったことに気がついたらしい。
「カレン」
「カレンね、可愛い名前だわ。さあカレン、三人でお茶しましょうか」
「うん!」
フレアローズはカレンに降りてもらうと、ラウニィーをソファに座らせてお茶の準備を始めた。その間、カレンはラウニィーの膝によじ登り、絵本を読むようにせがんでいた。
「はいはい、んじゃどれがいい? どれでも読んであげるわよ」
カレンが差し出したのは『シンデレラ』だった。
ラウニィーはカレンを膝に乗せ、絵本を読み始める。美人は何をしても絵になるなあとフレアローズは思いながらお茶を淹れ、さっき焼いたクッキーの一部をトリスタンのために取り分けてから、残りのクッキーを部屋にあった紙袋に入れた。カレンに持たせてやろうと思ったのだ。
「ラウニィーさん、ずっと読んでると喉が渇きませんか? お茶が入りましたよ。カレンちゃんはホットミルクですね、はちみつはどのくらい入れますか?」
とぽぽ、とフレアローズがはちみつをハニーディッパーですくってホットミルクに入れ、カレンが頷いたところで止める。結構甘いと思う量なのだが、甘党のお子ちゃまにはちょうどいい量かもしれない。
「今日のクッキーはわたしが焼いたのですよ。殿下のお気に召すとよいのですが」
「あいつはあんたが作ったものなら、どんな激甘なお菓子だって美味しいって食べるんだから心配いらないわよ」
そういえばそうだった。トリスタンは甘いものが得意ではないのだが、フレアローズが作ったお菓子だと気にならないらしく、絶賛しながら全部食べてくれる。
フレアローズからすればラファエルの作るスイーツの方がずっと見た目も味も上だと思う。ラファエルのスイーツはとても美味しいだけでなく見た目も美しいのだが、フレアローズのお菓子は焼きっぱなしの素朴なものばかりだ。教会で暮らすシスターから教わったレシピでお菓子を作るのだから、パティシエが作るスイーツとは全く違うのは当然だった。
シスター・アイリスが教えてくれたお菓子はどれも素朴な焼きっぱなしで、甘さも控え目で優しい美味しさだ。フレアローズはそのレシピを踏襲してお菓子を作っているので、彼女の作るお菓子もどれも見た目も味わいも素朴で優しくて美味しい。そこがフレアローズらしくていいのだとトリスタンは言って、いつも綺麗に平らげてくれる。ありがたいことだ。
「カレンちゃん、ラウニィーさんがお茶を飲むので邪魔してはいけませんよ。こちらにきましょう」
カレンはこくんと頷くと、フレアローズの膝によじよじと登ってきた。座りよく体勢を直してやり、ホットミルクを手渡す。
「熱いですからふうふうしましょう」
カレンがふうふうしてからちびりちびりとホットミルクを飲んだ。
「美味しい?」
ラウニィーの問いにカレンはまたこくんと頷く。甘さもいい感じのようだ。
「カレンちゃん、クッキーも食べましょう」
バニラとココアのうずまきクッキーを手渡してやると、カレンはポシポシと齧り始める。フレアローズもバニラとココアのハーフクッキーを取り、同じようにポシポシ齧り始めた。その姿がなんだか似ているので、ラウニィーは面白くなった。
「あんた達似てるわねえ」
「髪の色が同じだからではないでしょうか」
ラウニィーもチョコチップクッキーを齧る。
「にてる?」
ラウニィーはカレンの頭をわしわしと撫でてやった。トリスタンとフレアローズの間に娘が生まれたら、カレンのような感じに育つのかもしれない。
「カレンとフレアローズが似てるのよ」
ラウニィーがにぱっと笑う。本物の美人はにぱっと笑っても美人のままだ。
「にてる! にてる!」
カレンが嬉しそうに手を上げた。
三人で過ごす午後のティータイムは、楽しく和やかに時間が流れていくのだった。
ラウニィーが「女性騎士団長の仕事に戻る」と言ってフレアローズの部屋を出て行き、シンデレラと赤ずきんちゃんの絵本を読み終わった時には、日が大分傾いていた。
「カレンちゃん、パパとママのところに帰らなくていいのですか? きっと心配してますよ」
カレンはフレアローズの膝の上でしばしきょとんとしていたが、フレアローズの肩によじ登ってきた。
「帰る」
「そうですね、帰りましょうか。ではクッキーを持って行きましょう。絵本も持って行きましょうか。おうちでママに読んでもらうといいです」
カレンが頷いたので、フレアローズはカレンを一度下ろしてから立ち上がり、絵本を数冊チョイスしてクッキーの袋と一緒に手提げ袋に入れた。カレンはそれをじっと見ていたが、ソファからぴょんと降りるとフレアローズのところへちょこちょこと歩いてきた。
「フレアローズ、抱っこ」
「はい」
フレアローズはかがんでカレンを抱き上げた。カレンはよじっと体勢を安定させると、フレアローズの首にしがみつく。フレアローズは、教会にいた頃にこうして戦災孤児を抱っこしてあげたり、おやつや食事の面倒を見たりしていたことを思い出した。
教会に預けられる戦災孤児は、大体がカレンと似たような年齢の子供が多かった。毎日巡礼者の相手や告解の相手をしなければいけない神父様やシスター達に代わって、フレアローズが子供達の面倒を見ていた。なので子供達は皆フレアローズによくなついてくれたのだ。一人の子供をカレンと同じように抱っこをすると、他の子供達も抱っこをせがみ、結局毎回一人ずつ抱っこをすることになるのが常であった。
毎日がそんな感じで楽しかったが、教会で預かるのは一時的だったので、預かる子供の入れ替わりはそこそこ頻繁だった。最初は寂しくて別れる時も泣いてしまい、さらに夜にはベッドでポーちゃんを抱いてぐすぐす泣いていたのだが、いつしか笑顔で送り出すことができるようになっていった。フレアローズにとって懐かしい思い出だ。
「フレアローズ、カレンまたくる」
「はい。いつでも遊びに来てくださいね」
フレアローズはカレンと手提げ袋を持って庭園へと向かうのだった。
カレンと他愛ないお話をしながら歩いていたら、何時の間にか庭園に着いていた。
「おりる」
カレンがもぞもぞし出したのでそのまま下ろしてやる。フレアローズは手提げ袋を差し出し、カレンの小さな手に持たせてやった。
「ここでいいんですか?」
フレアローズの問いにカレンがこくこくと頷いた。
カレンはそのままフレアローズに背を向けてぽてぽてと歩き始める。
「カレンちゃん、気をつけて帰ってくださいね。また遊びましょう。絵本はカレンちゃんに差し上げますから」
カレンがくるりと振り向いた。
「えほん、カレンにくれるの?」
「はい。わたしとカレンちゃんが友達になった証です」
「カレンとフレアローズ、友達! ラウニィーも友達!」
はしゃいでクルクル回るカレンを見ながら、フレアローズは笑顔で頷いた。
「そうですよ、わたしもラウニィーさんもカレンちゃんの友達ですから。またいつでも遊びにきてくださいね。次は殿下にも会えるかもしれませんし」
「……でんか?」
カレンがきょとっと首をかしげる。
「この国の皇子様ですよ」
カレンの表情がぱあっと輝いた。絵本で王子様が出てきたのを思い出したらしい。
「おうじさま! おうじさま!」
「では次にカレンちゃんが遊びにきたら殿下にご挨拶しましょうか」
「うん!」
カレンは満面の笑みを浮かべると、フレアローズに手を振ってから歩き出した。
「またくる!」
「はい、またきてくださいね」
フレアローズもぱたぱたと手を振る。カレンはぽてぽてと振り返らずに歩いていたが、植え込みを曲がる際に振り向いてフレアローズを見た。ぶんぶんと手を振ってくる。フレアローズも手を振り続けてカレンを見送る。
いっぱい手を振って満足したのか、カレンはそのまま植え込みを曲がって歩いていった。
カレンの姿が見えなくなっても、フレアローズはしばらく動かずにいた。
教会で一緒に過ごしたたくさんの戦災孤児達に思いを馳せながら―――
その日の夜。風呂上がりのフレアローズは、いつものようにトリスタンとベッドに座って今日の報告をしていた。
「―――というわけです」
「へえ、楽しそうじゃないか。僕もその子に会ってみたいものだ」
「またくると言っていましたから、意外とすぐに会えるかもしれませんね……にしても、カレンちゃんはどなたのお嬢さんなのでしょうねえ」
トリスタンは天を仰いでから首をひねった。彼の知る限り、側近には幼い子供を持つ親はいないからだ。もちろんメイドや侍従やシェフなどまでいってしまうと把握できていないので、断言はできないのだが。
元叛乱軍メンバーのリチャードやミモザやサンディ、カミーノやミヒャエルやインヴィクタやその他は全員独身だし、ランスロット卿は子なしの男やもめだ。ギルバルド卿もカノープス卿も独身だし、ラウニィーもノルンも未だ独身だ。ただし、ノルンは来年の末頃までに、恋人であるデボネア将軍と結婚すると二人から報告を受けている。ラウニィーは相変わらず面食いで、しかも自分より強い男を探しているのだが、とんと出会える気配がなかった。
カステアン卿には息子が二人いるが、二人共とうに成人していて、まだ独身だった筈だ。側近の貴族達にも幼い子供を持つ者はいない。
そう考えると、自分の周囲には意外と結婚している者は少ないのだな、とトリスタンは思う。まあ、自分もフレアローズと婚約中とはいえ、一応はまだ独身なのだが。
「まあ、次にその子がきたら親御さんのことを訊いてみればいいんじゃないかな」
「そうですね」
二人共、カレンが人間ではなく雪ん子だということなど知る由もなかった。
数日後。
新王都ゼノビアは、朝から記録的な大雪に見舞われていた。初雪であるのにも関わらずだ。数日前に雪ん子のカレンが長居したため、大量に雪が降ってしまったのである。
そして。
執務室のデスクに向かうトリスタンの膝に、見事な赤毛と透明なくらいに白い肌と透き通ったアイスブルーの瞳を持つ小さな子供が座っていた。
カレンだった。
よっぽどフレアローズが気に入って大好きになったらしく、フレアローズとトリスタンが朝目覚めたら、何故かカレンがベッドにちょこんと座っていたのだ。当初は庭園でフレアローズを待っていたのだが、通りがかった近衛にお願いして部屋まで運んでもらったようだ。メイドや侍従が部屋に入ることがあるため、普段ドアに鍵は掛けない。なので、カレンは容易にフレアローズが寝ているベッドまで辿り着くことができたのだった。
カレンは足下にいたのだが、身体を起こしたフレアローズに気付くとシャカシャカと高速ハイハイして飛びついてきた。フレアローズは驚いていたが、満面の笑みでカレンを抱き締めてやった。
その騒がしさでトリスタンがふにふにと目覚めたが、フレアローズは何故カレンがここにいるのか、親は誰なのか等の細かいことは一切気にせずに、喜んでカレンをトリスタンに紹介した。それから、朝食を一緒に食べて執務室にカレンを連れてきたのだった。
カレンはすっかりトリスタンを気に入り、デスクや書類に鉛筆で落書きをしたり、トリスタンの肩によじよじとよじ登ったり、ほっぺや髪の毛を引っ張ったりと好き勝手に振る舞っている。さすがの子供パワーだ。
「おうじさま! おうじさま! カレン友達!」
「そうだね、カレンは僕の友達だ……でもカレン、友達なら書類に落書きするのは勘弁してくれるかい……」
カレンは雪ん子とはいえ小さな子供だし、悪気は全くないので、書類で遊ばれても怒る訳にもいかない。
実は先程、トリスタンが書類への落書きをほんの少しだけ怒ったところ、カレンにびーびー泣かれてしまい、あろうことか、こちらに非難の目を向けてきたフレアローズに窘められてしまったのだ。理不尽極まりない。
なので今夜はカレンの分までフレアローズにお仕置きをしようと内心で決めるトリスタンだった。これも充分理不尽であるが、彼の中では正しいことなのだ。
「カレンちゃん、殿下はお仕事中なのでこっちでわたしと遊びましょう」
フレアローズが手招きをしたが、カレンはトリスタンにしっかりとしがみついて首をぶんぶか振った。
「カレンもうちょっとおうじさまと遊ぶ」
「……仕方ないですねえ」
「……はいはい」
フレアローズは仕分け中の書類を持ったまま苦笑いを浮かべ、トリスタンはカレンを抱えながら盛大な溜息をつくのであった。
こうして、カレンが冬の間にしょっちゅうゼノビア城のフレアローズのところに遊びにくるおかげで、新王都とその近隣都市は、軒並み冬の間中桁外れの大雪に見舞われることになるのだった。
ちなみに、春になってカレンが雪ん子の里に戻って行っても、カレンが雪ん子だと気づいた者は誰もいなかった。
ぶっちゃけお前ら全員鈍すぎである。
……まあ、この大陸の人間は、魔獣やら妖精やらデビルやらオバケやその他諸々と共存できているため、ハナから人間以外の生物に慣れっこなせいなのだろう。
慣れ過ぎなのも善し悪しかもしれない……。
終