紅い薔薇白い薔薇



 貿易都市ベルチェルリ。ここは、首都マラノに程近い貿易都市で、マラノへの物流はこの都市を経由して行われており、非常に重要な都市である。
 そのベルチェルリの一角にあるアパートメントの二階の窓から、街角を見ている若い男がいた。
 周囲には既に夜の帳が降りていて、魔法で点灯されている街灯がぼんやりと石畳を照らしている。建物自体が街の中心部から外れているためか人の通りはまばらで、アパートメントの二階など気にする通行人はいない。
「……遂に遭い見えるか……鬼が出るか、蛇が出るか」
 独りごちる男の瞳に、整然と敷き詰められた石畳が映っていた。戦争で荒廃してしまった大多数の地方都市とは違い、マラノに程近い貿易都市のベルチェルリは道路も街灯も整っている。
 男が小さく嘆息したと同時に、扉がノックされた。ノックの音に反応し、短く「入れ」と返事をすると、男は顔を上げた。
 さらりと豪奢な金髪が流れ、肩の先に落ちる。凛と引き締まった細眉と、切れ長の鋭い目つき。高くすっきり整った鼻梁に、薄目で形の良い唇。背が高く、厚みのある立派な体躯を持つその男の姿を、誰が見ても『立派な美丈夫』と評するだろう。数多の女性を虜にしてきたであろう、非常に整った顔立ちだ。
 男の声に呼応しドアが開くと、男よりも少々年上らしき一人の騎士が入ってきた。
「殿下、叛乱軍がトリエステの城塞より進軍し、帝国軍を既にマラノまで撤退させております」
 若い男は「殿下」と呼ばれた。
 彼の名はフィクス・トリシュトラム・ゼノビアという。
 彼こそが、叛乱軍も帝国軍も躍起になってその所在を捜している、旧ゼノビア王国王家最後の生き残りトリスタン皇子その人であった。
「そうか。他の情報は入っているか」
 騎士は少し首を振った。 「……それが、どうやら彼らは意図的に流している情報を絞っているようでして」
「どういうことだ?」
「行軍や出撃の面子等そこそこの情報は掴めたのですが、肝心の情報が一切掴めないのです」
 肝心の情報。
 それは、叛乱軍リーダーの姿形に関するものであった。
 当初、彼は叛乱軍がここまで民衆の支持を得たうえで進軍をしてくるとは考えていなかった。つまり、自分達レジスタンスにとっては取るに足らぬ規模であると思い、情報を集めてこなかったのだ。
 それがどうだ。今や叛乱軍はレジスタンスよりも遥かに名声を上げ、次々と都市を解放し、帝国軍を撃破し、撤退させているではないか。  その叛乱軍が自分達の後を追ってマラノに入ったということは、もしかしたら彼らもレジスタンスにとって脅威となりえるのではないか。
 そう思ったトリスタンは、叛乱軍の情報を掴むよう部下達に命じた。
 なので、叛乱軍が自分達レジスタンスと接触したがっているという情報はとうに掴んでいた。恐らく、自分の身の安全を確保し、尚且つ叛乱軍に迎え入れて錦の御旗にしたいのだろう。
「現在、叛乱軍はボローニャにまで到達し、そこを最前線としています。ただ、リーダーはボローニャではなくフェルラーラにいる模様です。リーダーの護衛としてハイランドの女聖騎士ラウニィー・ウィンザルフがついています」
 トリスタンは片眉を上げた。聖騎士ラウニィー・ウィンザルフの名は知っている。ハイランド王家に直接仕える大貴族ウィンザルフ家の娘であるラウニィーは、ハイランド王国軍初の女性聖騎士であり、実力は折り紙付きだ。そのラウニィー・ウィンザルフが直接護衛についているとは。
 高潔で誇り高く、ハイランド王国とエンドラ女王に絶対の忠誠を誓うことで有名な、ハイランド王国軍の聖騎士が女王以外に膝を折るということから、叛乱軍リーダーという人物が余程の実力者であろうことは想像がついた。
「……リーダー殿がトリエステからフェルラーラにまで出てきたということは、こちらから丁重に出迎えてやらねばなるまい」
 トリスタンは唇の端を吊り上げた。
「明日の早朝に馬車を出し、フェルラーラに向かわせ、叛乱軍リーダー殿を丁重にここへ迎えよ。私が直接にもてなそう」
「かしこまりました、殿下」
「うむ。下がれ」
 騎士は一礼をして扉を閉めた。室内を暗闇と静寂が支配する。
「……ただでは俺は利用されてやらぬぞ、叛乱軍。そちらが俺の名を利用するのならば、こちらも叛乱軍を存分に利用させていただこうではないか」
 トリスタンは皇子らしからぬ獰猛な笑みを浮かべた。
「この俺が叛乱軍を掌握する。その上でリーダー殿は利用価値を見極めることとしよう」
 彼は脳内で叛乱軍リーダーがどのような人物であるかを予想しつつ、カーテンをそっと閉めた。
「俺とてここまで死なずに戦場で生きてきたのだ。どこの馬の骨とも知らぬ者などに遅れを取るとは思わぬ。剣を交えるのなら、せめてこの俺の傷と血にまみれた身体に新しく傷の一つでもつけてみるがいい」
 トリスタンのその言葉で、彼が自分の剣の腕に絶対の自信を持っていることが窺い知れた。
「アプローズを殺し、帝国を倒すための礎となるか、道を違えるか、それは神のみぞ知るだな、叛乱軍」
 運命の歯車が大きく動き出していることを、トリスタンは悟った。ゼノビアの皇子と叛乱軍のリーダー。互いの運命の道が交差する時が遂に来たのだ。
「時は来たれり、か」
 トリスタンの呟きが、漆黒の闇に溶けていった。



 貿易都市フェルラーラにある、無人だったアパートメントに叛乱軍の都市解放部隊は駐留していた。
 メンバーはカミーノ、フェンリル、リチャード、カノープス、サンディ、ラウニィーそして叛乱軍リーダー・フレアローズである。ベルチェルリにトリスタン皇子が潜伏しているという情報を得たため、都市解放と都市防衛を兼ねて、トリエステとボローニャ、そしてフェルラーラに三分割して駐留することにしたのだった。
 今日もよく晴れている。
 帝国軍の掃討は大分進んでいて、三日前に叛乱軍が解放した都市フェルラーラは、以前の落ち着きを取り戻していた。とはいっても、六日後に領主アプローズ男爵の結婚式が開かれるため、街には観光客が大分増えてきて賑いを見せ始めていた。
 家事なら何でも器用にこなし、料理上手なフレアローズがささっと作った、シンプルながらも美味しい朝食を皆で食べ終わると、全員で日課であるアパートメントの掃除と洗濯を開始する。今日はフレアローズとラウニィーが玄関周りの掃除担当だ。
 フレアローズが箒で玄関や段差を掃き、手すりを拭く。一階の窓を拭くのはラウニィーだ。
 ラウニィーは大貴族のお嬢様なので、叛乱軍加入当初は掃除などしたことがなかったようだ。初めての掃除のときには、はたきを手渡されて固まっていた。戸惑っているラウニィーを見て『掃除のやり方が解らない』ことに気付いたフレアローズが色々と手ほどきをしてやり、今は皆と同じくせっせと掃除ができるようになっていた。
 玄関先の掃除をしているフレアローズとラウニィーの目の前に黒い馬車が停まった。御者は三十歳前後の男だ。黒い服に身を包んでいるが、その身体はよく鍛えられているのが見て取れる。
 彼は御者台から降りると、フレアローズとラウニィーに話しかけてきた。
「すみません、こちらは叛乱軍の皆様がおいでになっていると聞いてきたのですが……」
「……ええ。そちらはどこからきたの」
 ラウニィーが露骨に怪しみ、フレアローズの前に立つ。二階の窓を拭いていたカノープスもばさばさと羽をはためかせて降りてきた。
「大変失礼致しました。私はトリスタン皇子の従者をしておりますマティアスと申します。皇子の命により、叛乱軍リーダー殿を皇子のところへお連れするためにこうして参上致しました……リーダー殿はどなたでしょうか」
 顔を上げ、目を左右に動かすマティアスの前に、フレアローズがとててと出てきた。
「初めましてマティアスさん。わたしが叛乱軍リーダー・フレアローズです」
 フレアローズはぺこりとお辞儀をした。
 マティアスはぽかーんと呆けた顔をしてフレアローズを見るしかなかった。フレアローズが彼の予想していた人物像とはあまりにもかけ離れていたからだ。
 彼が想像していた叛乱軍リーダーは、トリスタンとあまり変わらぬ年代の屈強な青年であった。だが、今のマティアスの目の前でリーダーを名乗っているのは、叛乱軍とはおよそ似つかわしくない、小さくて華奢で、非常に愛くるしい可憐な若い娘だった。
 こんな娘がリーダーとは。ということはこの娘は相当な実力者なのであろう。とても可愛い顔をしているのに、人とは判らないものだ。
「トリスタン皇子様のところへ、とのことですが、皇子様はどちらにいらっしゃるのですか?」
「はい。皇子はベルチェルリにおられます。ここからですと馬車で二時間もあれば到着するかと思います。ご一緒においでいただけますか? 可愛いお嬢さん」
 フレアローズはいつもの笑顔で頷いた。
「はい。よろしくお願い致します」
「ちょっと待ちなさい」
 マティアスと一緒にベルチェルリに行くことを快諾したフレアローズに横やりを入れたのはラウニィーだった。
「悪いけど、リーダーを一人で行かせるわけにはいかないの。あたしも行くけど、いいかしら」
「承知しました」
 マティアスが頭を下げる。フレアローズがぽんと手を打ち、マティアスへと向き直った。
「マティアスさん、すぐに発つのもお疲れでしょうから、お茶を飲んで少し休憩致しませんか? 今美味しいお茶をお淹れしますから」
「……恐縮です」
「では、こちらへどうぞ。ラウニィーさん、お掃除は戻ったら続きをしますね」
 フレアローズはドアを開け、マティアスを誘った。彼はラウニィーとカノープスに頭を下げ、フレアローズの後についていった。
 マティアスを見送ったラウニィーは、ドアが閉まるのを確認すると、カノープスに声を掛けた。
「……あんたも来るのよ、カノープス」
「俺もかよ。別にカミーノかリチャードでいいだろ」
 ラウニィーは鋭い目つきで馬車を見ていた。
「バカね。あんたじゃないとダメなのよ。あんたしか空飛べないでしょうが」
 カノープスが訝し気にラウニィーを見た。
「もし万が一、これが罠だったり、対話が決裂したりで皇子の一団が襲ってきたら、あたしが連中を足止めするからあんたはその隙にあの子を抱えてトンズラこくのよ」
「……おめーはどうすんだよ」
「あんたマジでバカね! このあたしがゼノビアのなまっちょろい連中なんかに後れを取るとでも思ってんの? 青二才皇子のへなちょこ近衛なんか百人いたってあたしの足下にも及ばないわ」
 カノープスがヒュー、と口笛を吹いた。
「てゆーか、あたしの方がゼノビアの青二才皇子なんかよりも強いに決まってるじゃないの。あの子を護るのはあたしの役目。あたしはもう祖国の為ではなくあの子のためにここにいる。そう、全てはあの子のためよ。あの子を護るためならば、この命、いつ捨てても惜しくはないわ」
 カノープスは何も言わなかったが、内心ではラウニィーに完全同意だった。
 今の叛乱軍はフレアローズのために存在する。全員がフレアローズを敬愛し、護りたいと望み、フレアローズに命を捧げているのだ。
「ゼノビアの青二才なんかに、みすみすあの子を利用されてたまるものですか。あの子に仇なすのなら、たとえ皇子だろうがあたしがこの手で殺すまでよ」
 ラウニィーのアイスブルーの瞳に殺意の炎が宿った。
 彼女は本気だ。もしもフレアローズにトリスタン皇子が牙を剥けば、ラウニィーは何の躊躇もなく彼を殺すであろう。トリスタン皇子が死ねば、ゼノビアの再興は叶わなくなり、それと同時に叛乱軍の大義も失われるのだが、ラウニィーにとってはそんなことなど知ったことではない。
 彼女が心酔し、その命を捧げるのは、叛乱軍ではなくフレアローズなのだ。
 ラウニィーが大陸に平和をもたらすために邁進する叛乱軍にいるのは、全てフレアローズのためで、大陸が平和になれば、フレアローズも普通の女の子に戻って平和に幸せに暮らせるからだ。もちろん彼女は大陸を平和にした後もずっとフレアローズと一緒にいると決めている。ハイランドの復興をフレアローズと共に成し遂げるつもりでいるのだ。ゼノビアの再興など、ウォーレンをはじめとするゼノビアの面々とトリスタン皇子がやればいいことであって、決してラウニィーがやることではない。ましてや、普通の女の子であるフレアローズにやらせていい筈がない。
 ゼノビアの再興をフレアローズにさせるわけにはいかないと言いつつ、ハイランドの復興は二人で成し遂げるというどえらく矛盾しまくった言い分だが、ラウニィーにとっては正しいことなのだ。
「何もなければそれでいいのよ。でも万が一に備えて準備をするのは当然だわ」
 ラウニィーの言葉が、青空にさらりと吸い込まれていった。


 客間のテーブルに置かれたティーカップに、とぽぽと紅茶が注がれていく。ソファに座ったマティアスの目の前には、紅茶とお供のクッキーが置かれていた。
「紅茶が入りましたので、どうぞご賞味くださいマティアスさん。こちらバルモア地方の紅茶だそうで、とても美味しいのです」
 フレアローズが自ら紅茶を淹れ、マティアスをもてなしてくれた。意外だ。先刻も玄関の掃き掃除をしていたし、叛乱軍リーダーならば、もう少し周囲を使って自分は悠々していてもいいものだろうにとマティアスは思った。
 だが、彼の仕えるトリスタン皇子も雑用を厭わずにせっせと働くので、その辺は同じなのかもしれない。
 マティアスはティーカップを持ち、紅茶を口に含む。華やかな香りが鼻を抜けていく。すっきりとした味わいの美味しい紅茶だ。
「……とても美味しい紅茶ですね。お嬢さんは紅茶を淹れるのがとてもお上手だ」
 マティアスが素直に感嘆すると、フレアローズは薔薇の蕾が綻んだような愛らしい笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。ぜひクッキーもどうぞ」
 薦められるままにクッキーに手を伸ばし、口に運ぶ。サクサクとした歯触りが心地よい。甘さは控え目なようだ。
「あの、マティアスさん。皇子様にお目にかかるのに武器は持って行けないと思うのですが、わたしだけ不携帯でもかまいませんか? 今日皇子様にお会いするのはわたしだけですので」
 フレアローズはよく身分をわきまえているとマティアスは内心で感心した。皇子と初めて会う人物が誰であろうと武器を携えていればそれは不敬極まりないし、排斥されても文句は言えない。本来ならば共にある護衛も武器は不携帯でなければいけない。
「できれば、全員が武器を持たずにきていただきたいのですが……」
 マティアスの言葉に、フレアローズは困った顔をした。
「うーん、わたしは元々武器なんて持っていないのでかまわないんですけど、ラウニィーさんが何とおっしゃるかなと……ラウニィーさんは聖騎士ですので、武器を持たずにというのは多分承諾していただけないと思います」
 ……確かにそうだ。武人ならば丸腰で他所に赴くなどという自殺行為は絶対に呑まないだろう。
 いくら聖騎士とはいえ、万が一皇子の暗殺を謀ろうとするならば、近衛全員でかかれば鎮圧できるであろう。相手は敵国ハイランドの軍人であるのだから、私怨で皇子に危害を加えないとも限らないのだ。
「大変失礼致しました、その通りです。ラウニィー殿には殿下にお目通りしないということで、武器の携帯を認めましょう」
 フレアローズはほっとしたような表情を見せた。先刻外にいたラウニィーはまさに絶世の美女だが、こちらのフレアローズはそうではなく、ほっとするというか、落ち着くというか、端的に評すると『癒し系乙女』であった。
「そういえばわたし達はアムドで皇子様や皆さんの情報を得てここまで進軍してきたのですが、やはり皆さんもとてもご苦労をなさっていますよね? 皇子様はお疲れではありませんか? もしもお疲れのご様子でしたらお会いするのは後日でもかまいませんけれど……」
 マティアスは内心で面喰った。まさか叛乱軍リーダーに皇子の状態を気遣われるとは思っていなかったからだ。
「……ありがとうございます。ですが、ご心配には及びません。皇子は堂々とした体躯の立派なお方ですゆえ、多少の事ではお疲れになどなりますまい」
 フレアローズは少しだけ小首を傾げた。
「わかりました。それでしたらこのまま皇子様にお会い致しましょう」
 今まで見せていた愛くるしい表情とは打って変わった、凛とした表情をフレアローズは見せた。



 馬車ががたごとと車輪を鳴らしながら走っていた。御者台ではマティアスが馬を操り、普通の馬車より速いペースで進んでいる。おかげで中は少々揺れが激しかった。
「……運転荒過ぎんだろ」
 顔色の悪いカノープスがごちる。どうやら馬車酔いしているらしい。
 彼は普段乗り物に乗らずに自らの羽で大空を翔るので、馬車揺れに敏感なのだ。
「ちょっとカノープス、ゲ○吐くのは勘弁しなさいよ……あたしゲ○袋持ってないんだから」
 些かうんざりした表情でラウニィーが返す。運転の荒さには彼女も閉口しているようだ。
「カノープスさん大丈夫ですか? 吐きたくなったら窓かドアからお顔だけ出して吐くしかないと思います。すみません、私もエチケット袋持ってきてなくて」
 カノープスの羽が場所を取ってしまっているため、馬車の座席の真ん中にちょっと窮屈そうに肩を窄めて座っているフレアローズが、ポシェットからハンカチをささっと出してカノープスに手渡してきた。
「これどうぞ。鼻に当てて香りを嗅ぐと少し楽になりますから」
 カノープスがハンカチの香りをくんくんと嗅ぐと、スッキリとした清涼な香りがしてきた。
 これはいい感じだ。カノープスの気分が少し楽になってきた。
「……おっ、これいいな。なんだこれ」
「ハンカチにミントのオイルを垂らしたのです。カノープスさんは乗り物には慣れていらっしゃらないので、ご気分が悪くなるかもしれないなと思いまして、あらかじめ用意しておきました。少しは楽になりましたか?」
 フレアローズが心配そうにカノープスを見た。こうした気配り上手なところが実にフレアローズらしい。
「おっ、気が利くじゃねーか。さすがミジンコ娘! ゲ○袋も持ってないどっかの誰かさんとはえらい違いだぜ」
「……カノープス、あんたあたしにケンカ売ってんの?」
 ラウニィーがギロリとカノープスを睨んだ。
「ラ、ラウニィーさん、落ち着いてください……そうだ、キャンディありますから皆でなめましょう。ラウニィーさん、ハンカチはまだありますから、ご気分が優れなくなったらいつでもおっしゃってくださいね」
 フレアローズは、さっとパラフィン紙に包まれたキャンディを取り出すと、カノープスとラウニィーに手渡した。
「ミントキャンディですから、なめるとスッキリして楽になりますよ」
 三人は同時にパラフィン紙からキャンディを出し、丸くて薄い水色をしたキャンディをぽいっと口に放り込んだ。
 すぐにスッキリとしたミントの風味と優しい甘味、そして些か刺激のあるミント特有の辛味が口の中に広がった。ミントキャンディにしては辛味が抑えられていて、辛い物がどうにも苦手で食べられないフレアローズでも安心してなめられる美味しいキャンディだった。
「おいしいですねえ」
 フレアローズがモゴモゴしながら言う。
「スッキリして気分の悪さが大分楽になったわ。さすがあたしの可愛いらぶりーミジンコちゃんね」
 ラウニィーがフレアローズの肩を抱き寄せ、ぽんぽんと左肩を叩いてきた。その様子に、カノープスが内心で小さく笑う。
『……本当に溺愛してるんだよなあ……。まさかハイランドの聖騎士様まであっさり落としちまうとは。全くとんだ人たらしだぜ』
 もちろん、フレアローズは自分が天然の人たらしなことなど、知る由もないのだった。




 二時間程度とマティアスから聴いていた三人は、それよりも大分早く到着したらしいことに安堵していた。
 ミントキャンディをなめて窓を開けたりして運転の荒さに耐えていた三人だが、さらにスピードを増して荒くなった運転に、すっかり馬車酔いが悪化してしまった。
 おかげでベルチェルリの皇子のいるアパートメント前に到着する頃には、全員マジでゲ○吐く五秒前であった。
「……あの野郎、後でバッチリお礼参りしてやるぜ……おいラウニィー、もちろんおめーも参加するだろ?」
 真っ青になっているラウニィーが、抱き枕代わりのフレアローズを抱き締めながら毒づいた。
「……ったり前じゃない。絶対にケツをシバいてやるわあのド下手糞ポンコツ御者もどき」
 同じく真っ青になっているフレアローズが慌てて二人を取りなす。馬車酔いで気分が悪いというのに、短気で血気盛んなところは相変わらずそっくりだ。
「お二人共、そういうのはダメですよ……マティアスさんだって、なるべく早く到着するようにがんばってくださったんですから」
 そして、フレアローズは相変わらずのとても単純なお人好しだった。
 二人が気分の悪さに耐え切れずに口をつぐむとほぼ同時に、馬車のドアが開いた。
「お待たせしました。こちらです」
 そこには非常にいい笑顔を浮かべたマティアスがいた。
「……ありがとうございました……」
 ものすごく顔色の悪いカノープスが一番に降り、次に、やっぱり真っ青なフレアローズとラウニィーがよれよれと降りてきたのだが、マティアスには何故彼らの顔色が激悪なのかさっぱり解らなかった。
 マティアスは優秀な近衛であり、皇子の近侍の一人である。
 気配りもよくできるし、穏やかで人当たりも良い。皇子の覚えもめでたい好人物だ。
 そんな彼は客人をあまり長時間馬車に押し込めておくわけにはいかないと気を遣った。そのおかげで馬車の運転をガンガンいってしまい、中にいる三人は酷い馬車酔いに見舞われたのだが、彼はそれには思い至らなかった。自分がどんなに揺れても馬車酔いしないため、他人はそうではないことに気づかなかったのだ。
 よって、三人を案内してアパートメントの二階に上がる間、微妙な空気と殺気がマティアスの背後に漂っていたのである。


 アパートメント二階の一番広い部屋。その一番奥に座っている男がいる。彼は、黒く飾りのないジュストコールを纏っていた。
「諸君、叛乱軍リーダー殿はいかような人物と見受けるかね?」
 彼の問いに、両隣に控えている近衛が返答する。
「……では、中年の男に三十ゴートを」
「私はフルアーマーの屈強な騎士に二十ゴートですね。殿下はいかがでしょう」
 殿下と呼ばれたトリスタン皇子は、髭をきっちりと剃った顎に手を当て、少し考えるような表情をした。
「……そうだな。私と同い年くらいの若い男に五十ゴートかな」
 叛乱軍リーダーの姿形予想が出揃ったところで、マティアスがドアをノックし、入ってきた。
「殿下、叛乱軍リーダー殿をお連れ致しました」
『遂に来たか』
 トリスタンは無言で椅子から立ち上がった。


 「こちらへどうぞ、お嬢さん。あとのお二人はこの場でお待ちいただきます」
 マティアスがカノープスとラウニィーに椅子を勧め、フレアローズを手招きした。
 二人が椅子に座ると、近侍の初老の男が紅茶を出してくれているのがフレアローズの視界の隅に映った。
「カノープスさん、ラウニィーさん、それじゃトリスタン皇子様にお会いしてきますね」
「おう」
「何かあったらすぐにあたしを呼びなさいね」
 心配そうに言うラウニィーに、フレアローズは笑顔を向けた。
「はい。でもまあ何もないですよ。ラウニィーさんならいざ知らず、わたしみたいなミジンコちんちくりんなんか皇子様が相手にする筈ありません」
 それでも些か不満げな表情をしたままのラウニィーに、フレアローズは近づいてそっと彼女の首に腕を回した。
「万が一があったら、ラウニィーさんにお任せしますね。大丈夫です、わたしの逃げ足の速さはラウニィーさんもご存知でしょう?」
「……そういやそうだったわね。ロードランナーのあんたが本気で逃げたら誰も追いつけなかったわ」
 ラウニィーがようやく表情を緩め、フレアローズの頬にキスを贈ってくれた。フレアローズもキスをラウニィーの頬にお返しして、彼女から離れた。
「ではマティアスさん、案内をお願いします」
 フレアローズはひらりと白いミニワンピのスカートをはためかせ、マティアスの後についていった。


 マティアスが手招きをしたようで、靴音がした。
 トリスタンは、軍靴のガチャガチャとした重い靴音を想像していた。叛乱軍リーダーとやらが彼の想像通りの人物ならば、軍靴を履いてアーマーを装備しているに決まっているからだ。
 ところが。
 彼の耳に届いた靴音は、ぱたた、と非常に軽い音であった。
 こんな軽くて小さな足音のマッチョマンなどいるわけがない。
 だとすれば、叛乱軍リーダーはまだ少年なのか?
 そして靴音がぴたりと止まる。

 刹那、トリスタンの瞳に映ったのは、紅い薔薇だった。


 フレアローズは、マティアスの手招きで部屋の傍に立った。
『ここに、皇子様がいらっしゃるのね』
 彼女は一度小さく、だが深く息を吸い、そして真っ直ぐ前を見据えた。
 小さな手を、そっと自分の胸に当てる。とくん……とくん……と心臓の音が聴こえる。やはり自分は大分緊張しているらしい。
 フレアローズは今まで、皇子様という存在を実際に見たことがない。大好きなおとぎ話の挿絵でしか見たことがないのだ。おとぎ話の王子様は誰も彼も整った顔をしているが、トリスタン皇子もやはりそうなのだろうか?

 ぱたたと足を踏み出し、室内に入ったフレアローズの瞳に、白い薔薇が映った。


 「失礼致します」
 トリスタンの耳に入ったのは、鈴を転がしたような、高く可愛らしい穏やかな声だった。
 彼の目の前で深くお辞儀をしているのは、屈強な騎士でもなく、同い年くらいの男でもなく、少年でもない。

 小さく華奢で、愛くるしい微笑みの非常に可愛い可憐な乙女であった。

 彼女は、深く鮮やかで、たっぷりとしたストロベリーブロンドを大きなピンクのリボンでまとめている。毛先は膝まで流れていた。金髪や茶髪、ブルネットはそう珍しくもないが、こんなに鮮やかな赤い髪をトリスタンは初めて見た。見た者全てに対して強烈に印象付けるストロベリーブロンドだ。
 次にトリスタンの視線を引いたのは、肌の色だ。この大陸では白い肌の人間が主流なのだが、彼らよりもずっと白い。例えるなら新雪や陶磁器のような肌をしている。ぱっちりとした大きな目は鮮やかに輝くサファイアブルーで、その瞳を彩る長くけぶる睫毛は人形のようだ。
 そして、ちょこんと乗った小さな鼻と、薔薇色のふわふわしたほっぺ。まるで朝摘みのいちごのように瑞々しく、ぽってりとした艶めく紅い唇。あの唇はきっと甘くやわらかく、触れたら極上の良さに違いない。
 彼女は外見にふさわしい、甘い綿菓子のようにフワフワした優しい雰囲気を持っている。まさに『誰かが護ってやらなければいけない』雰囲気だ。
 白いフリルたっぷりのミニワンピを持ち上げる非常に豊かな胸と、抱き寄せたら折れそうなくらいに細い腰に、すらりとした脚。
 野に密やかに咲く小さな紅い薔薇が人の形を取るとしたら、まさしくこの姿形になるであろう。
 トリスタンは思わず息を呑んだ。

『……何て……可愛いんだろう……』

 彼の視線が、フレアローズに完全に奪われていた。

 トリスタンは義勇軍リーダーとして、十六歳から戦場に立っていた。彼の周囲にいた女性達は皆一様に美しく、背が高く、そして自分の身を自分で守れる強さを兼ね備えていた。
 ところが、今自分の目の前にいる乙女はどうだ。
 彼女は叛乱軍リーダーでありながら、誰かが護ってやらなければならない外見と雰囲気だ。
 こんな可憐で愛くるしい乙女が叛乱軍リーダーだなんてトリスタンは想像だにしていなかった。それ故に、フレアローズの外見はトリスタンに鮮烈な印象を与えた。

 トリスタンが、生涯を捧げる女性に一目惚れをした瞬間が今であった。


 フレアローズはお辞儀をしてから顔を上げた。
「お初にお目にかかります、トリスタン皇子殿下。わたしは叛乱軍リーダー、フレアローズ・ベルと申します。こたびは皇子殿下にお目にかかれて光栄に存じます」
 フレアローズはあえて皇子の前で膝を折らなかった。彼に服従するためにここにきたわけではないからだ。
 叛乱軍とレジスタンス。
 この二派が合流することにより、帝国への抵抗勢力としてさらに力がつく。
 そのためには、一方的な隷属はしてはならない。フレアローズはそう考えていた。
 ならば、自分がへりくだってはならない。王族ではないが、リーダーとして対等な立場でいなければならない。
 フレアローズは胸を張り、堂々と皇子の前に立った。

 威風堂々。

 今のフレアローズはまさしく威風堂々であった。

 フレアローズは口上の後、トリスタン皇子を真っ直ぐに見た。
 彼はとても背が高かった。フレアローズの頭は彼の胸くらいまでしかない。フレアローズは小さいので、身長差はやはり大分ついている。トリスタンの身長はランスロットと似たような感じだろう。身体の厚みは細マッチョのランスロットよりも筋骨隆々のカノープスに近い感じだ。
 トリスタンの豪奢な金髪は、さらりとしていて肩の先に流れ、目映い輝きを放っている。同じゼノビア人のランスロットの金髪は少々くすんでいるし、ギルバルドは残っているサイド部分は白髪で、そのうえ残念ながら他の部分には色が判別できるほどの量が残っていなかった。ウォーレンとアッシュとサラディンは全部白髪だし、カノープスは自分と同じ赤毛なので、トリスタンの目映い金髪は印象的だった。
 トリスタンの瞳の色はとても美しかった。自分の鮮やかなサファイアブルーの瞳とは違う、深くて美しいロイヤルブルーだ。切れ長で涼やかな目元を、長い睫毛が飾っている。眉は凛とした細眉だ。鼻梁はすっきりと高く、彫りが深いがその割にコテコテに濃いわけでもない。ナチュラルな印象だ。そして、薄目で形の良い唇が彼の端整な顔を引き締めていた。
 叛乱軍にもイケメンはいる。カノープスとカミーノとスルストがそうだ。あと、ロマンスグレーと言った方が正しいかもしれないが、アッシュとサラディンもイケメンだ。 なので、フレアローズはイケメン耐性はそう低くない。
 だが、トリスタンは叛乱軍内のイケメン達とは一線を画していた。
 彼は端整な顔立ちと立派な体躯を持つ青年で、まさしく『美丈夫』と呼ぶにふさわしい風貌の男だった。
 フレアローズは、こんなに整った顔の美丈夫を初めて見た。おとぎ話に出てくる王子様は皆イケメンだが、線が細くてすらりとしている絵ばかりで、きっとトリスタン皇子もおとぎ話の王子様と似通った外見なのかと思っていた。
『現実の皇子様とおとぎ話の王子様は全然違うのね……なんていうか、素敵すぎて現実感があまりないかも……』

 これが、フレアローズと彼女の生涯の伴侶となる男性との出逢いであった。


 先刻まではしっかりと、威風堂々とトリスタン皇子の前に立っていた筈のフレアローズは、皇子の外見をついまじまじと見てしまい、あっという間にいつもの彼女に戻ってしまっていた。大きな輝くサファイアブルーの瞳をぱちくりと瞬かせてトリスタンを見るその様子は、まるで好奇心旺盛な子猫のようで、トリスタンは内心で『フレアローズ……名前まで可愛いなんて反則だろ……全部ものすごく可愛い……』と思ってしまい、ポーカーフェイスを保つのに非常に骨が折れた。
「貴女が叛乱軍リーダーですね。初めまして、フレアローズ様。私はトリスタン。旧ゼノビア王国の皇子です……まさか、貴女のような可憐で可愛らしくも美しい女性が叛乱軍を率いているとは思いませんでした」
「……お褒め戴きありがとうございます。それよりも、ご無事で何よりでございました、トリスタン皇子殿下」
 フレアローズの薔薇色のほっぺが少し色を増す。彼女とて、年頃の乙女である。美丈夫皇子様に褒められたらそれは素直に嬉しい。
 でもここに、もしもラウニィーがいたら「可愛いのは本当で見る目はあるけど、あんたは単純お人好しで初心なんだから、皇子様の甘い言葉なんて鵜呑みにしちゃだめよ」と窘めてくるだろうが、ほんの少しの時間だけでも甘い言葉に嬉しさを感じたって許される筈だ。
「フレアローズ様。私の望みは、帝国を打倒し、民衆が自由と平等を謳歌することのできる平和な世界を造ることです。それには、私やレジスタンスだけではなく、叛乱軍の力が絶対に必要なのです。私の望みに、力をお貸し願えますか」
 フレアローズは、目の前で微笑みを浮かべて立っているこの男が、実に食えない男だと感じた。
 やわらかな口調と穏やかで耳に心地よい低い声で下手に出ているように聞こえるが、彼の言葉はその実有無を言わせない命令と同義である。ここでこの男の意に沿わぬ回答をすれば、恐らくフレアローズの命はないだろう。それを彼女は直感した。
 ラウニィーがトリエステでの報告書整理の時に言ってきた「皇子には気をつけなさい」の言葉はある意味間違ってはいなかった。
 実際のところ、トリスタンは『自分の意に沿わなければ叛乱軍リーダーを排除して自分が叛乱軍を掌握する』つもりではいた。つまり、フレアローズの警戒と危機感と直感は間違ってはいない。だが、彼のその冷徹な選択肢は、フレアローズに一目惚れしてしまった時点で霧散してしまっていた。そして、そのことにも、皇子が自分に一目惚れをしたということにも、フレアローズは全く気がついていなかったのだ。
 なので、実はフレアローズが警戒しすぎ考えすぎなのだが、それを彼女に教えられる者は誰もいない。
 フレアローズは瞬時に脳内で思考を張り巡らせる。
 ここで回答を間違えれば、叛乱軍もただでは済まない。
 叛乱軍の命運が、フレアローズの肩に圧し掛かった。
「はい。全ては皇子殿下のお望みのままに」
 フレアローズの言葉に、トリスタン皇子は満足げに頷いた。
 とりあえず、ここはこのまま波風を立てるのは得策ではない。実際に皇子が叛乱軍内で専横を見せるようになったら、その時に歯止めを掛ければいいだけだ。今は、同じ目的のために道を違えるのではなく、共にすべきなのだと、フレアローズは判断した。
 その判断に行きつくまでにもクルクルと表情を変えるフレアローズが、トリスタンには非常に新鮮だった。
 彼の周囲の近侍や騎士達は、皆こんなに表情豊かではない。全員大人の男性ばかりなのだからそれは仕方がないことなのだが、トリスタンにとっては少々疲れることであった。
 トリスタンは皇子とはいえ、中身は普通の二十五歳の青年である。皇子としての立場上、あまり感情を顔に出さないよう、威厳を忘れないよう、穏やかに静かに話すよう心がけていた。
 なのに、目の前にいる乙女はクルクルと目まぐるしく表情を変えていた。時には細い眉を上げ下げし、時には口元に弧を浮かべたりへの字にしたり、大きな目をぱちくりと瞬かせたりと忙しそうで、それがまた微笑ましかった。
「フレアローズ様」
 トリスタンはフレアローズに歩み寄ると、腰を折り、優雅にフレアローズの左手を取った。
 そのまま、フレアローズの小さな手の甲に、うやうやしくくちづけを贈る。
「これは、私から貴女へのお近づきのしるしです。どうぞお見知りおきを、叛乱軍に咲く紅い薔薇」
 フレアローズは、一瞬トリスタンに何をされたのか理解できなかった。やっと理解が追いついたのは、フレアローズの手を取ったまま、視線を合わせるトリスタンの瞳を見た時だった。
「は、ふ、フニャ……は、はい……」
 耳まで真っ赤になったフレアローズの手が、トリスタンの大きな手から離れる。くちづけを贈られた自分の小さな手を、もじもじしながらきゅっと胸に抱き、戸惑いつつもやわらかな笑みを浮かべてトリスタンを見るフレアローズを、彼は満足げに見た。
『ああ可愛いなあフレアローズちゃん……抱き締めたい可愛さ……だが今はまだ耐えろ俺……紳士は耐えねば……でも可愛い本当可愛い……フレアローズちゃんもう本当に可愛い……』
 トリスタンは心の声がだだ漏れになっていないか気をつけながら、フレアローズに向かって手を差し出した。
「フレアローズ様、あちらでソファにゆっくり座って、私と少々お話をしませんか?」
 フレアローズは少しきょとっとしたが、すぐに笑顔を見せてきた。
「はい。よろしくお願い致します皇子殿下」
「ではこちらへどうぞ、フレアローズ様。悪いが誰かお茶を淹れてくれないか」
 フレアローズは、自分の前に出されたトリスタンの大きな手に、遠慮がちにそろそろと自分の小さな手を置いた。 紳士が女性をエスコートするのに手を重ねるのは当たり前の仕草で、それを断る理由はフレアローズにはなかった。
『やっぱり皇子様だから紳士なのね。こういう動きをキザじゃなくさらりとするのはすごいなあ……カミーノさんがするとキザっぽくなって笑っちゃうのに、皇子様がするとすごく自然……さすが皇子様ね』
 フレアローズは内心で皇子様に感心していた。ついさっきまでバリバリ警戒していた筈なのに。
 おとぎ話の王子様よりも自然なトリスタンは、ひょっとしてものすごくすごい人なのではないだろうか、と思うようになっている。これがフレアローズの単純さだ。
 トリスタンはフレアローズをエスコートし、部屋の奥にあるドアへと歩を進めたのだった。


 エスコートされて入った部屋は、今までいた部屋よりも狭くてこじんまりとしたシンプルな部屋だった。
 一人掛けのクッションチェアと、ゆったりしているけれど、飾りも何もないシンプルな二人掛けのソファと、小さなテーブルがひとつあるだけだった。ベッドはないので寝室ではないようだ。
「こちらへどうぞ、フレアローズ様」
 フレアローズをソファの前まで連れて行き、皇子は微笑んで見せた。優しい微笑みだ。
 初心で単純な夢見がち乙女のフレアローズの胸が一瞬高鳴った。先刻までのどこかしら硬さの見えていた皇子の顔から、硬さが一気に消えたような気がする。
「ありがとうございます」
 フレアローズがソファに腰掛け、トリスタン皇子がチェアに座ると同時にドアがノックされ、紅茶を手にした近侍の男性が入ってきた。
「殿下、紅茶をお持ち致しました。お茶菓子もありますのでどうぞ、可愛いお嬢さん」
「はい、ありがとうございます」
 フレアローズは笑顔で頭を下げ、紅茶が置かれたテーブルを見た。無地の皿にマカロンが四つ置いてある。『ラウニィーさん食べたがるだろうなあ』と思いつつ、ちらりとトリスタンを見ると、彼は既に紅茶の入ったティーカップを持っていた。
「ああ、ありがとう」
「はい。では、失礼致します」
 近侍が頭を下げて部屋を出て行き、あとはトリスタンとフレアローズの二人だけになった。
「……叛乱軍は、いつ頃結成されたのでしょう? フレアローズ様」
 フレアローズはどうも居心地がよくなかった。自分を様付けで呼ぶのは、アッシュとバルモア遺跡地方で新しく加入してきたインヴィクタだけだ。呼び方は好きにすればいいと思って止めてはいないがイマイチ居心地がよくないのに、本物の皇子様にまで様付けで呼ばれてはさらに居心地が悪くなってしまう。
「今年の地竜の月です……あ、あの、皇子殿下」
「なんでしょう」
 フレアローズは紅茶を一口飲んだ。
「わたしはリーダーとはいえ平民ですので、そんなにかしこまらずともよろしいのではないかと思います……」
「……リーダーであることには変わりはないでしょう?」
「あー……えー……わたしに敬語で話す方はウォーレンさんとアッシュさんとインヴィクタさんしかいらっしゃらないので……なので、皇子殿下もできましたらもう少しお気軽にしてくださると居心地が悪くなくなりましてですね……」
 うにゃうにゃと言葉を濁しながら言うフレアローズを、トリスタンは『うにゃうにゃ言ってるのも可愛いなあフレアローズちゃんは!』と思いながら見ていた。
「……では、『皇子殿下』を止めていただけるのなら」
「はへ?」
 トリスタンがくくっと笑う。
「そこまで私をかしこまった呼び方で呼ぶ者は誰もいないからね。君にかしこまって話す者だって少ないだろう?」
「あ、は、はあ……で、ではせめて『殿下』で……」
 フレアローズは気が抜けた炭酸ソーダのような返事をすると、マカロンをひとつ取った。チョコマカロンだ。口に運ぶと、チョコクリームの甘さとマカロン生地の軽さがほどよくマッチしていた。美味しい。紅茶も芳醇な香りで美味しい。さすが王族に出すだけはあるのだが、実は、トリスタンは王族にありがちな美食命のグルメどころかかなりの貧乏舌で、別に安い紅茶でも安い大衆食堂でも全く気にせずかぽかぽと口に運ぶタイプなのだ。
「そこまで前でもないんだな……てっきり年単位で前なのかと……」
「いえあのそこまででは」
 トリスタンがまた紅茶を飲んだ。
「しかし、ここまでくるにも紆余曲折はあっただろう?」
「ええそりゃもう……! 思い出した!」
 突然フレアローズが立ち上がる。トリスタンは面喰いながらフレアローズを見上げるしかなかった。
「殿下! 殿下はここにくる前にアヴァロン島のアヴァロン神殿にご滞在していませんでしたか!?」
「あ、ああ、確かに……何故それを」
「わたし達がアヴァロン神殿でユリウス司教猊下にお会いした時に頼まれたのです。『殿下を止めてください』と」
「そうだったのか、それはすまなかったね」
 フレアローズはぐぐっと拳を握り締めた。
「ええ、もうものすごーく大変な思いをしてガレス皇子を月に代わってお仕置きしている間、加勢にもこなかったので随分とまあ薄情な皇子様ご一行だなと思っていたのですが、わたし達がアヴァロン島に進軍した時にはもうすでにいらっしゃらなかったそうで! ユリウス司教猊下が「殿下が帝国に行ってしまったので危ないから止めてくれ」とおっしゃるので、どこに行ったのか訊いたら「帝国のどこにいったかは訊いてません」だそうで! 何で行先も言わずにとっとと出て行きますかね!?おかげでわたし達がどれほど苦労したか! 聴いてくださいよ! 聴くも涙、語るも涙の苦労話、最初から最後までクライマックスですから!」

 ここから、フレアローズの長い語りが始まる。

……
(ポットに残っていた紅茶を飲むトリスタン)
…………
(マカロンをもしゃもしゃ食べるトリスタン)
………………
(なんとなくメモを取るトリスタン)
………………………………
(退屈になってあくびをかみ殺すトリスタン)
………………………………………………………………
(うとうとしそうになり太腿を抓るトリスタン)

 ぜーはーと息を切らせながら、ようやくフレアローズが言葉を切った。トリスタンが立ち上がり、まだ紅茶の残っているカップをフレアローズに手渡す。すっかり冷めてしまった紅茶を、フレアローズが一気に呷った。
「まだだ! まだ終わらんよ!」
 おいおいまだあんのかよ……とトリスタンは内心げんなりした。いくら可愛いフレアローズちゃんでもさすがにこれ以上語られるのは厳しい。つーか日が暮れてしまう。
 ぎっとトリスタンを睨むフレアローズの肩に手を回し、ギギギと力を込めてソファに座らせると、トリスタンもそのまま隣に腰掛けた。
「ああ、わかったから落ち着いて……すまなかったね、諸君には苦労を掛けた」
 まだ話を続けようとするフレアローズの口に、トリスタンはローズマカロンを押し込んだ。なかなかにデキる皇子様である。
「もごむぐ」
「君のドラマチックな話もすごいけど、私の話も波瀾万丈だと思うよ? 聴いてみる?」
 フレアローズはウグウグとマカロンを飲み下し、そのまま隣に座っていたトリスタンをまじまじと見た。
「そ、そんなにすごいのですか……」
 フレアローズがゴクリと喉を鳴らした。
「ああすごいね」
「ど、どのくらいすごいのでしょう……」
「シェヘラザードよりも長く話せる自信があるよ」
 フレアローズはほえ〜と感嘆の表情を見せた。どうやらクライマックスしかない語り(笑)を続けることは忘れてくれたようだ。
「せ、千夜一夜ですか……」
 本来、シェヘラザードはベッドの上でシャフリヤール王に毎日語ったので、フレアローズにもそうしてやりたいところだが、残念ながらそこまで語るようなネタはトリスタンは持っていなかったので断念する。でもまあ、おかげで彼女はしっかり興味を持ってくれたようで、キラキラした瞳でトリスタンを見ていた。
「今聴きたい?」
 苦笑いをしながらトリスタンが言う。
「今聴いてしまうともったいないかなあと思います」
「ではまた後日にしよう」
 トリスタンはここでポットを持ち上げる。一人分くらいは残っているようだが、もう冷めてしまっている。新しい紅茶を持ってきてもらおうかと思って呼び鈴を取ったところで、フレアローズに制された。
「わたしはポットの紅茶で充分ですよ。近侍の方のお手を煩わせたくないです」
 フレアローズは微笑むと、トリスタンが置いたポットを取り、残りをとぽぽと自分のカップに注いで飲む。その様子をトリスタンは眩しそうに見つめた。
 フレアローズがリーダーである叛乱軍とならば、きっと自分達レジスタンスが合流しても上手くいく。保証はないが、彼はそう確信していた。
「……フレアローズ」
 フレアローズが紅茶を飲み終えたカップを置き、座ったままトリスタンに向き直った。
「はい、殿下」
 トリスタンの手が動き、フレアローズの小さな手を取った。それはとても自然で当たり前の動作だった。
 まるで、昔からそうすることが決まっているかのような動作。
 フレアローズは自分の手がトリスタンの両手に包み込まれるのを黙って見ていた。振りほどく気にはならない。嫌な気分にもならない。自分の手はトリスタンの大きな手の中が定位置なのだと、直感で感じたからだ。
 これが、フレアローズが感じた恋に落ちる予感。
 初恋もまだのフレアローズには、今感じているものが恋の予感だとは解らなかったけれど、その予感はとても心が温かく、そして少しだけくすぐったかった。
「僕は、ずっと帝国を倒して民衆が自由に平和に暮らせる国を造りたい、という目標の為に邁進してきたつもりだ。もちろん、これからもそれを怠るつもりはない。でも、僕だけではできることに限界がある。人間、手の長さよりも先の物には届かないんだ。それは解るかい?」
「はい」
 フレアローズは、本当のトリスタンに触れた気がした。口調も一人称も、きっと今が素の彼なのだろう。それはフレアローズにとって、とても安心できて好ましいものだった。
 トリスタンの大きな手は、ごつごつとして節くれ立った武骨な手で、皇子らしい優美な動きには似合わない手だけれど、その分素朴で温かくて、優しさが溢れる手をしていた。彼はこの大きな手で剣を握り、民衆に平和を捧げるためにここまで戦い続けてきたのだ。その苦難の道は、フレアローズが今歩んでいる道とは比較にならないし、想像もつかない。トリスタンは何も言わないけれど、フレアローズには何となく彼の苦労が解った。
 苦難の道を孤独に歩き続けてきたトリスタンの、大きくて優しい手をフレアローズは大好きになった。
 この大きくて優しさが溢れる手は、神父様のお手と同じ手だから。
 この手を持つトリスタンが、ガレス皇子と同じだなんてありえない。こんなに優しい、神父様と同じ手の持ち主がフレアローズに酷いことをするなんて、きっとない。
 誰に保証されたわけでもないし、確証もなかったけれど、フレアローズはそう思った。
 この皇子様に全幅の信頼を寄せても大丈夫。
 きっと彼は、フレアローズにいつも優しくしてくれる。優しい手で、フレアローズの手を引いてくれる。
 トリスタン皇子と出会えて、叛乱軍に迎えることができて本当に良かった。ラウニィーは彼を訝しんでいるが、すぐに納得して受け入れてくれるだろう。
 フレアローズはそう感じていた。
「僕が君と叛乱軍に望むのが、僕の望みの後押し。僕が届かない、僕の手の先にある物を取るのが君達。だから、レジスタンスと叛乱軍、進む先も、望みも、目標も同じだから、ひとつになって共に歩ければと思う……君は、どう思う? 叛乱軍リーダーの君は」
 トリスタンの言葉は誠実で嘘がないことが、フレアローズにはよく伝わってきた。この皇子様の本当の人柄が伝わる。彼はとても誠実な人柄なのだろうとフレアローズは理解した。
「はい。わたしも、他の叛乱軍メンバーの皆さんも、わたしと同じです」
 フレアローズが、空いていた左手をそっとトリスタンの大きな手の上に重ねた。トリスタンが内心でそう望んでいるだろうと察したからでもあるが、何よりも自分がそうしたかった。自分がトリスタンを信頼し、受け入れていることを、何とかして彼に伝えたかった。
 彼にそれは伝わったようで、先刻と同じ優しい微笑みを見せてくれた。
「わたし達叛乱軍は、殿下のお望みの為に、目標の為に、共に邁進するとお約束致します。進む先も同じなら、その先にあるものを見る瞬間もまた、わたし達と殿下が共にあるからだと考えます」
 フレアローズの真っ直ぐな視線がトリスタンの視線と絡み合った。
「わたしの役目は帝国を倒し、この大陸に平和の礎を築き幸せの種を植えることです。その先は、この大陸を治めることになるでしょう殿下のお役目です。叛乱軍メンバーの皆さんは、きっと戦争が終わっても皆殿下のお役に立ってくださることでしょう。ですから、殿下は安心して、目標と戦争終結後の未来に向かっていただければと思います」
 フレアローズには、自分の役目が何なのか、どこまで自分がいればいいのか、よく解っていた。彼女の言葉をよく聞くと、それが分かる。
 フレアローズには、戦争終結後のゼノビアの復興にも、ハイランドの復興にも立ち入るつもりがないこと。
 戦争が終われば身を引いて、永久凍土に帰って一人で静かに暮らすこと。
 彼女はそう考えていたし、そうするつもりだった。
「君にも戦争終結後も協力を頼むつもりだよ」
 フレアローズは笑顔を見せたが返答をしてこなかった。
「……今後ともよろしくお願い致します、殿下」
 会話を切り上げたということは、触れてほしくないのだろうと察したトリスタンは、深追いするのを止めた。
「ありがとう。僕も全力で取り組むから、よろしく頼む」
「へ? 全力ですか?」
 フレアローズがきょとんとした表情をした。
「あの、殿下? 叛乱軍で全力で真面目に戦争稼業やってる方なんて誰もいらっしゃいませんよ? 皆さんテキトーですから」
「……えっ?」
 トリスタンは思わずまじまじとフレアローズを見た。
「だってそうでしょう? 今まで何度も叛乱軍が結成されて、その度にダメだったそうなので。何度真面目にやってもダメなんだから、もうテキトーでいいですよね」
「お、おう……」
 トリスタンの目が遠くを見つめた。
 なんか聞かなければよかった気がどんどんしてくる……いや、気のせいだろう……戦争と言うのは切った張ったで生きるか死ぬかのデッドオアアライブだ。こんなお気楽な考えで生き抜けるほど甘いものではない。
 その筈なのだが。
「皆さん戦闘よりもお酒をいかに美味しく飲むかの方が重要だそうですよ? それに、戦争なんて真面目にやるものではないですよね」
「じゃ、じゃあ君達はどういう大義名分で戦争やってるんだい?」
「そんなものはありません」
 フレアローズがドきっぱりと言い切った。
「わたし達が戦争やってるのは伊達と酔狂です」
「」

 ……何だか叛乱軍はリーダーを筆頭にものすごいアレすぎる連中しかいない気がするトリスタンであった。




 トリスタンをはじめとするレジスタンスや近侍、近衛の騎士達は、アパートメントを引き払ってから叛乱軍に合流することが決まった。トリスタンはマティアスら数名と共にフェルラーラに駐留することになる。
 フレアローズとラウニィーとカノープスには片付けを手伝う義理はないし、帰りが遅くなるのはまずいので、先にフェルラーラのアパートメントに戻ることにした。
「では皆さん、私がお送りしますのでどうぞ」
 先程乗ってきた馬車がある。馬も休息できたようで、ピカピカツヤツヤだ。
「……帰りは安全運転で頼むぜ」
 カノープスがぼそりと言う。ラウニィーはお土産にマカロンとクッキーの詰め合わせをもらってご機嫌で馬車に乗り込んだ。
「マティアスさん、よろしくお願いします。運転、無理はなさらないでくださいね」
「おまかせください、お嬢さん」
 マティアスはフレアローズとカノープスも馬車に乗ったのを確認すると、ぱたんとドアを閉めた。
 馬車ががらがらと走り出す。ベルチェルリに向かった時よりも音が大きい気がするが気のせいだろうか。
 すぐに、気のせいではなかったと三人は理解した。
 皇子とフレアローズの会談は想定よりも時間がかかってしまっていた。そのため、普段通りの速さで馬車を運転すると、フェルラーラに到着する頃には日が暮れてしまう。
 それでは都合が悪かろうと、またしてもマティアスは気を遣った。

 馬車を往路よりもさらに速く走らせることにしたのだ。

 当然のように車内はものすごい揺れで、まさにカクテルのシェイク状態である。
「マティアース!! てめえマジでケツをシバいてやるからな!!覚えとけよゴラアァァァーーーーーー!!!! うっ」
 カノープスが絶叫の後に窓を開け顔を出し(自主規制)
「このポンコツ御者もどき!! ケツ蹴り上げてやるから覚悟しときなさいよ!!!」
 ラウニィーが真っ青な顔で拳をぎりりと握り、マカロンとクッキーが入った箱を抱える。お菓子が潰れないよう守るのに必死な分、カノープス程には酔っていないようだ。
「お二人共落ち着いてください……マティアスさんも早く着くように気を遣ってくださってるんですから……」
 顔色が青を通り越して白くなったフレアローズが、ミントキャンディをモゴモゴしながら必死に吐き気と戦う。まだジェットコースターの方がマシなのではないかとフレアローズは思った。
 運転の荒さは往路の比ではない。いくら気を遣ってくれていても、ここまで荒いのなら、遅くても丁寧な運転の方がずっとマシに決まっている。
「……俺らはマグロ漁船の乗組員じゃねーぞ……」
「バカねあんた……こんなんマグロどころか北海のカニ漁船じゃないのよ……」
「……わたしはマグロでもカニでもいいんで早く降りたいです……」
 車内が阿鼻叫喚になっているとは全く知らないマティアスは、一刻も早くフェルラーラに到着して三人を喜ばせようとがんばって手綱を操っていた。



 なんと、通常なら片道二時間のところ、マティアスと馬のがんばりで半分の一時間でアパートメントに到着した。
 マティアスがドアを開けると、三人がよれよれと這い出してきたので、マティアスは不思議そうに三人を見るしかなかった。
「ど、どうかしたのですか皆さん!?ひょっとして帝国軍が襲来でもしたのですか!?」
『てめーのせいだよてめーの……』
四つん這いになって(自主規制)三人と、おろおろするマティアスを見て、出迎えにきたカミーノとサンディは、四つん這いの三人と周囲に漂うアレな臭いに色々察して微妙な顔になるのだった。